碑文:
荻野山中陣屋に通ずる道で、江戸時代、荻野山中藩主が参勤交代の際、往来したのでこの名がついたという。また、武士達の山中陣屋への登場道でもあった。
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北は武州八王子、南は大住郡矢名村(現秦野市)をつなぐ道の名称で、この道は、南西に延び、小田原に向かっている。江戸時代には、八王子方面からの大山詣道としてにぎわった。
厚木市及川1166付近
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江戸時代、庶民の大山信仰と大山参りが盛んであったころは、関東北部、中部あるいは、甲州からの道者は依知・長坂の辺りから渡船で中津川を渡り、睦合北公民館南側の交差点、三田小学校脇を経て荻野新宿に至り、矢名街(海)道に合流する『道者街道』を盛んに往来したと言われている。
No.38「三田小学校跡」から現在の三田小学校へと上る坂道の途中に設置。
「大山道」という道標はこの他にもNo.91南毛利南地区・No.104相川地区にもあり、またNo.57荻野地区には「大山街道」があります。
金田地区には小字名として本間屋敷宿屋敷東屋敷中屋敷などがあり地頭本間氏一族が鎌倉時代から室町時代末期まで住んでいたと言われ主要な道路が十字に交差せずずれているのが特徴で鉤の辻道といい、守るに易く攻めるに難しい地形となっている
国道129号線中依知交差点付近から中津川よりの生活道路にて遭遇しました。
この先愛川町にも信玄道の道標が愛川町により設置されています。
また、129号の反対側には「小さな探究室」というお洒落なカフエがあるので寄ってみて下さい。
永禄12年、甲斐の武田信玄が小田原北条氏を攻撃した際の甲州軍の帰路の一部を「信玄道」と呼んでいる
正にここからがスタートだったと言っていい所。会社に向かう裏道として通った時に突然遭遇した場所。こんなところから道標巡りが始まりました。
坂東三十三番霊場は、相模国を振出として関東七ヶ国に及ぶが、相模国には一番から八番までの札所があった。
霊場めぐりの人々が歩いた道を巡礼道と呼んだ。
ここは、昔の矢倉澤往還で愛甲郡と中郡(大住郡)との境界でしたが、昭和30年に中郡相川村は、厚木市に編入合併しました。