26=鉤の辻堂
金田地区には小字名として本間屋敷宿屋敷東屋敷中屋敷などがあり地頭本間氏一族が鎌倉時代から室町時代末期まで住んでいたと言われ主要な道路が十字に交差せずずれているのが特徴で鉤の辻道といい、守るに易く攻めるに難しい地形となっている
金田地区には小字名として本間屋敷宿屋敷東屋敷中屋敷などがあり地頭本間氏一族が鎌倉時代から室町時代末期まで住んでいたと言われ主要な道路が十字に交差せずずれているのが特徴で鉤の辻道といい、守るに易く攻めるに難しい地形となっている
川と圏央道と坂道。
相模川の本流はかつて現在の水田地帯まで川幅があったと伝えられ、当時この付近に渡船場が設けられていた。川向いには高座郡座間新田宿村があり愛甲郡中依智村との往来や耕作のために利用されていた。その後、渡船場は本流の流とともに新田宿村側がわに移り、昭和20年ごろに木橋ができたことから姿を消した。
所在地 厚木市中依知915-1番地先
国道129号線下依知交差点から坂を下り吾妻坂下交差点の手前にあります。ここから更に下った所に「巡礼道」の道標があります。
吾妻坂古墳は、四世紀後半から五世紀初頭に造られたと推定され、墳丘の規模や発掘調査によって発見された青銅鏡、鉄剣、勾玉(まがたま)など多数の出土品から考え、政治的、経済的にもかなり有力な人物の墓であったとみられている。
神奈川県道601号酒井金田線(金田830付近)の一本裏にある道路にて遭遇。
近くにそば処松登久さんがあり、この界隈飲食店がないので昼食でもどうぞ。
船木田大明神(現金田神社)の縁起によると、鎌倉時代の仁治元年(1240年)領主本間六郎左衛門尉重連が、上水を通し田地を開発しようと考え、鎌倉幕府の家人杉山将監弘政(すぎやましょうげんひろまさ)に依頼してつくられたもので、灌漑や生活用水であると同時に、本間氏の館を守る要塞掘でもあった。
国道129号線中依知交差点付近から中津川よりの生活道路にて遭遇しました。
この先愛川町にも信玄道の道標が愛川町により設置されています。
また、129号の反対側には「小さな探究室」というお洒落なカフエがあるので寄ってみて下さい。
永禄12年、甲斐の武田信玄が小田原北条氏を攻撃した際の甲州軍の帰路の一部を「信玄道」と呼んでいる
正にここからがスタートだったと言っていい所。会社に向かう裏道として通った時に突然遭遇した場所。こんなところから道標巡りが始まりました。
坂東三十三番霊場は、相模国を振出として関東七ヶ国に及ぶが、相模国には一番から八番までの札所があった。
霊場めぐりの人々が歩いた道を巡礼道と呼んだ。