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北条・武田氏による「三増合戦」の際、逃げのびた武田勢が中津川の川音を海鳴りに、眼下のそば畑の花を白波と見間違え自害したとされる地に通ずる道と言われています。
小川流棚沢店につけ麺を食べに行った際に、No.34貝殻坂、No.35才戸の渡しと共に探した場所です。
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江戸時代、庶民の大山信仰と大山参りが盛んであったころは、関東北部、中部あるいは、甲州からの道者は依知・長坂の辺りから渡船で中津川を渡り、睦合北公民館南側の交差点、三田小学校脇を経て荻野新宿に至り、矢名街(海)道に合流する『道者街道』を盛んに往来したと言われている。
No.38「三田小学校跡」から現在の三田小学校へと上る坂道の途中に設置。
「大山道」という道標はこの他にもNo.91南毛利南地区・No.104相川地区にもあり、またNo.57荻野地区には「大山街道」があります。
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明治25年12月、下川入、棚沢両小学校を統合し創立、昭和41年3月、北小学校と統合の為、廃校となるまで73年余続いた文教の地。校名の由来は、詩経の一部「菁者莪也」より菁莪小学校とする。
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下川入の鎮守社・諏訪神社の北側に位置し、通称下川入上の坂(下川入には台地を結ぶ3つの坂)といわれている。神社付近を諏訪の原とも呼ばれている。
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江戸時代から昭和初期まで、この地に渡船場があった。
猿が島村民は、相模川中洲の耕作地に通うため利用した。
また対岸磯部村とを結ぶ大山道の渡しでもあり、大山参りの旅人に利用されたという。
昭和初期まで、相模川を往来する物資運搬の帆掛け船の発着地でもあった。
何度か通った道も横断歩道に何気なく設置されていた。ここも住所表記を地図で検索された場所ではなく近隣を何度も徘徊してしまった。道路向かいの広場の先が渡船場だったのか?
中世から古道八王子道の上依知村と対岸当麻村を結ぶ相模川の渡船場があった。
江戸時代に盛んとなった大山参りには、埼玉・八王子方面からの大山道として大いに利用された。
明治期には上依知に委託運営されていたが、昭和三年の増水で渡船に被害が出て、昭和橋が完成した昭和六年、その役目を終えた。
相模川は、平安時代に鮎川と呼称され、江戸時代には鮎を将軍に献上しました。
当時の鮎漁には鵜飼があり、この坂を藤兵衛(とうべえ)さんが鮎をとるために鵜
水鳥)を連れて通っていたことから、「鵜藤坂」と呼称されるようになりました。
現在、鵜飼は岐阜県長良川が有名です。