碑文:
真言宗西光寺は、ある時、強盗に襲われたが、本尊の阿彌陀如来が身代わりとなって首を失ったという。その後、奇端によりこの川からなくなった首が発見された。以来、この川を阿彌陀川と呼ぶようになった。
厚木市及川636付近(厚木市及川青少年広場付近)
碑文:
干無川の由来は、水源が湧水のため、「干」たことが「無い」川という意味である。
昔は、水車などもあり、冷たい澄んだ水の流れは、生活の場であった。昭和30年代ころまで、農業用水として利用され、農家にとっては重要な水資源であった。
碑文:
干無川の由来は、水源が湧水のため、「干」たことが「無い」川という意味である。
昔は、水車などもあり、冷たい澄んだ水の流れは、生活の場であった。昭和30年代ころまで、農業用水として利用され、農家にとっては重要な水資源であった。
川と圏央道と坂道。
相模川の本流はかつて現在の水田地帯まで川幅があったと伝えられ、当時この付近に渡船場が設けられていた。川向いには高座郡座間新田宿村があり愛甲郡中依智村との往来や耕作のために利用されていた。その後、渡船場は本流の流とともに新田宿村側がわに移り、昭和20年ごろに木橋ができたことから姿を消した。
所在地 厚木市中依知915-1番地先
神奈川県道601号酒井金田線(金田830付近)の一本裏にある道路にて遭遇。
近くにそば処松登久さんがあり、この界隈飲食店がないので昼食でもどうぞ。
船木田大明神(現金田神社)の縁起によると、鎌倉時代の仁治元年(1240年)領主本間六郎左衛門尉重連が、上水を通し田地を開発しようと考え、鎌倉幕府の家人杉山将監弘政(すぎやましょうげんひろまさ)に依頼してつくられたもので、灌漑や生活用水であると同時に、本間氏の館を守る要塞掘でもあった。
厚木中学校前の遊歩道に設置されており車道側から視認しにくい所だった。
室町時代に灌漑用に造られた用水路で、小鮎川より水を取り入れて、厚木-岡田-酒井-戸田-大神-田村に流れていたため、「田村用水」と呼んだが、通称「田村堀」として知られている。
その後、昭和初年に改修され「昭和用水」となる(今は、用水のほとんどが覆われ緑道として親しまれている)。