国道129号線中依知交差点付近から中津川よりの生活道路にて遭遇しました。
この先愛川町にも信玄道の道標が愛川町により設置されています。
また、129号の反対側には「小さな探究室」というお洒落なカフエがあるので寄ってみて下さい。
永禄12年、甲斐の武田信玄が小田原北条氏を攻撃した際の甲州軍の帰路の一部を「信玄道」と呼んでいる
国道129号線中依知交差点付近から中津川よりの生活道路にて遭遇しました。
この先愛川町にも信玄道の道標が愛川町により設置されています。
また、129号の反対側には「小さな探究室」というお洒落なカフエがあるので寄ってみて下さい。
永禄12年、甲斐の武田信玄が小田原北条氏を攻撃した際の甲州軍の帰路の一部を「信玄道」と呼んでいる
正にここからがスタートだったと言っていい所。会社に向かう裏道として通った時に突然遭遇した場所。こんなところから道標巡りが始まりました。
坂東三十三番霊場は、相模国を振出として関東七ヶ国に及ぶが、相模国には一番から八番までの札所があった。
霊場めぐりの人々が歩いた道を巡礼道と呼んだ。
何度か通った道も横断歩道に何気なく設置されていた。ここも住所表記を地図で検索された場所ではなく近隣を何度も徘徊してしまった。道路向かいの広場の先が渡船場だったのか?
中世から古道八王子道の上依知村と対岸当麻村を結ぶ相模川の渡船場があった。
江戸時代に盛んとなった大山参りには、埼玉・八王子方面からの大山道として大いに利用された。
明治期には上依知に委託運営されていたが、昭和三年の増水で渡船に被害が出て、昭和橋が完成した昭和六年、その役目を終えた。
相模川は、平安時代に鮎川と呼称され、江戸時代には鮎を将軍に献上しました。
当時の鮎漁には鵜飼があり、この坂を藤兵衛(とうべえ)さんが鮎をとるために鵜
水鳥)を連れて通っていたことから、「鵜藤坂」と呼称されるようになりました。
現在、鵜飼は岐阜県長良川が有名です。
ここは情報に振り回されて何度も何度も上依知小の周りをグルグル回ってしまった場所です。
情報の住所・緯度・経度も違っていました。508号線の下の道にありました。近くにはAQUA Pizzaさんが有ったのでピザ食べればよかった。
碑文:
坂の途中に七面堂(観音堂)があり、この七面堂へ参拝したので堂坂と呼ぶようになった。
今は七面堂はなく、観音像は宝泉寺(ほうせんじ)に安置されている。
昔、猿ヶ島へ渡ってきた人が大山参詣に通った道であるが、当時、依知地区には多くの馬が飼育され、農耕以外にも厚木方面への荷物輸送に馬が使われ、この坂を通ったところから馬坂と呼ばれた。
依知村長を務めた中丸重郎兵衛(なかまるじゅうろうべい)が梅沢重義(うめざわしげよし)・梅沢忠左衛門(ちゅうざえもん)らの協力を得て、明治24年に設立した。
教授は、加部成興(かべなりおき)であった。
明治35年に閉塾となった。
明治22年から昭和30年まで続いた自治体で、山際、上依知、中依知、下依知、金田、関口、猿ヶ島の七カ村が合併して成立。
「一遍上人の念仏」。ここは、昔から渡場(わたっぱ)といい渡し船のあった所で、700年前一遍上人が水難防除の念仏を唱えられた所である。
特に子供の事故が続いたので、人々の安全を願って、一遍上人三十代の他阿上人(たあしょうにん)が、室町時代に建立されたのがこの名号塔である。