碑文:
北条・武田氏による「三増合戦」の際、逃げのびた武田勢が中津川の川音を海鳴りに、眼下のそば畑の花を白波と見間違え自害したとされる地に通ずる道と言われています。
小川流棚沢店につけ麺を食べに行った際に、No.34貝殻坂、No.35才戸の渡しと共に探した場所です。
碑文:
江戸時代、庶民の大山信仰と大山参りが盛んであったころは、関東北部、中部あるいは、甲州からの道者は依知・長坂の辺りから渡船で中津川を渡り、睦合北公民館南側の交差点、三田小学校脇を経て荻野新宿に至り、矢名街(海)道に合流する『道者街道』を盛んに往来したと言われている。
No.38「三田小学校跡」から現在の三田小学校へと上る坂道の途中に設置。
「大山道」という道標はこの他にもNo.91南毛利南地区・No.104相川地区にもあり、またNo.57荻野地区には「大山街道」があります。
碑文:
三田小学校とは、明治6年5月静学館(妻田村)支校「三田小学校」としてこの地に創立され、明治20年に「尋常三田小学校」と改称し、昭和48年7月に児童の急増にともない、現在の場所に移転された。
八幡神社階段上り口右側に設置されています。分かりずらい場所です。
碑文:
江戸時代の農村は、豊年の年はともかく、凶作の年には年貢を納める金子がなく、田畑を質入れして年貢を納めるため、荻野新宿の質屋へこの道を通ったと伝えられている。
この道標を探し当てる難易度は非常に高い所でまるで人の家の庭に入っていくような錯覚を起こす場所でした。
碑文:
明治22年に三田、及川、林、妻田、棚沢、下川入の6箇村により愛甲郡三田村外5箇村組合村となる。その後、昭和20年に6箇村が合併し、互いに仲良く睦み合うという意味から睦合村となり、昭和30年までこの地に村役場が置かれた。また、平安時代、この一帯は、印山郷と呼ばれていた。
三田老人憩いの家入り口に設置されています。
碑文:
明治25年12月、下川入、棚沢両小学校を統合し創立、昭和41年3月、北小学校と統合の為、廃校となるまで73年余続いた文教の地。校名の由来は、詩経の一部「菁者莪也」より菁莪小学校とする。