依知村長を務めた中丸重郎兵衛(なかまるじゅうろうべい)が梅沢重義(うめざわしげよし)・梅沢忠左衛門(ちゅうざえもん)らの協力を得て、明治24年に設立した。
教授は、加部成興(かべなりおき)であった。
明治35年に閉塾となった。
依知村長を務めた中丸重郎兵衛(なかまるじゅうろうべい)が梅沢重義(うめざわしげよし)・梅沢忠左衛門(ちゅうざえもん)らの協力を得て、明治24年に設立した。
教授は、加部成興(かべなりおき)であった。
明治35年に閉塾となった。
明治22年から昭和30年まで続いた自治体で、山際、上依知、中依知、下依知、金田、関口、猿ヶ島の七カ村が合併して成立。
「一遍上人の念仏」。ここは、昔から渡場(わたっぱ)といい渡し船のあった所で、700年前一遍上人が水難防除の念仏を唱えられた所である。
特に子供の事故が続いたので、人々の安全を願って、一遍上人三十代の他阿上人(たあしょうにん)が、室町時代に建立されたのがこの名号塔である。
ここは車道からは植物に隠れて何度か通り過ぎても気が付かなかった。
平塚方面から来た荷馬車が暴れだし、馬主が死亡したことから、馬を慰め、馬主を弔うため、明治41年9月、近郷近在の馬の関係者により馬頭観世音の碑が建立される。
厚木神社内にあります。
平安時代より疫病除けの神として牛頭天王が祀られ那須与一も眼病祈願をし、厚木のお天王様として親しまれた。
夏祭りはお盆とも重なり近郷近在より田植え後の老若男女が繰り出し露店や見世物小屋も掛り、人の波で沸き、賑やかさを呈した。
現在は厚木神社と称し尊崇されている。
通りから神社へと入っていく道で神社前に設置。
平安時代、この地を船木田郷と称し、水辺で船に係わる集落を郷名とした発祥の地と伝えられ、近くには江戸時代に立場(休憩所)があった場所です。
現在の船喜多神社は船木田郷の遺名の神社であると伝承される古社です。
ここも分かりにくい所で、路地を入って行き普通の民家の前に設置ありました。
昔、妻田村と水利を巡る争いに勝利した厚木村は、現・日枝神社の地に勝利庵(松林庵)を開き、負けた妻田村から山王社を移して裏山に奉りました。後に寺は廃寺となりその跡地へ山王社が移され、日枝神社と改名して現在に至ります。
厚木の渡し
相模川をわたるために設けられた渡船場で海老名市河原口をむすび五隻の船で往来してた。
ここは大好きなラーメン屋さん”MOJA★MOJA”のすぐ近くで、普段でも何気なく通り過ぎていた場所。今回道標巡りをすることにより走行中でも間違いなく目にすることとなった。