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現厚木神社の前身である牛頭天王が祀られていた所で、字名を天王免と称し、天王社が祀られている事から税が免除されていた地です。牛頭天王は、インドの厄病除けの神様で、社の創建は古く、平安時代の天延年間に右大臣の藤原伊尹が観請、創建したと伝わる。
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下川入の鎮守社・諏訪神社の北側に位置し、通称下川入上の坂(下川入には台地を結ぶ3つの坂)といわれている。神社付近を諏訪の原とも呼ばれている。
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江戸時代から昭和初期まで、この地に渡船場があった。
猿が島村民は、相模川中洲の耕作地に通うため利用した。
また対岸磯部村とを結ぶ大山道の渡しでもあり、大山参りの旅人に利用されたという。
昭和初期まで、相模川を往来する物資運搬の帆掛け船の発着地でもあった。
改訂版が出版される以前の資料を基に市内を探し回り100基リストに無い道標を見つけたりもしていたが、改めてこの改訂版をお借りして見ていると住居表示が違っているものも多数あった。道理でグルグルと探し回ったことが記憶にある。
「厚木の道標一覧」のリストを更新。
今後は地域名の細分化に対応する。
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貝殻坂
市島地区に下る坂を貝殻坂と呼よび、坂付近から貝の化石が出土するところからこの名前がつけられた。所在地 厚木市棚沢133
金田地区には小字名として本間屋敷宿屋敷東屋敷中屋敷などがあり地頭本間氏一族が鎌倉時代から室町時代末期まで住んでいたと言われ主要な道路が十字に交差せずずれているのが特徴で鉤の辻道といい、守るに易く攻めるに難しい地形となっている
川と圏央道と坂道。
相模川の本流はかつて現在の水田地帯まで川幅があったと伝えられ、当時この付近に渡船場が設けられていた。川向いには高座郡座間新田宿村があり愛甲郡中依智村との往来や耕作のために利用されていた。その後、渡船場は本流の流とともに新田宿村側がわに移り、昭和20年ごろに木橋ができたことから姿を消した。
所在地 厚木市中依知915-1番地先
国道129号線下依知交差点から坂を下り吾妻坂下交差点の手前にあります。ここから更に下った所に「巡礼道」の道標があります。
吾妻坂古墳は、四世紀後半から五世紀初頭に造られたと推定され、墳丘の規模や発掘調査によって発見された青銅鏡、鉄剣、勾玉(まがたま)など多数の出土品から考え、政治的、経済的にもかなり有力な人物の墓であったとみられている。
神奈川県道601号酒井金田線(金田830付近)の一本裏にある道路にて遭遇。
近くにそば処松登久さんがあり、この界隈飲食店がないので昼食でもどうぞ。
船木田大明神(現金田神社)の縁起によると、鎌倉時代の仁治元年(1240年)領主本間六郎左衛門尉重連が、上水を通し田地を開発しようと考え、鎌倉幕府の家人杉山将監弘政(すぎやましょうげんひろまさ)に依頼してつくられたもので、灌漑や生活用水であると同時に、本間氏の館を守る要塞掘でもあった。