碑文:
「高札」とは、法令・禁令など板札に墨書きし、ひと目につきやすい場所に掲示したもので、ここは、明治6年まで、野州烏山藩の高札場であった。
厚木市林3-5-43付近
改訂版の本の中に掲載されている写真の背景には企業の倉庫のような場所だが、現在はマンションが建設されておりその道路際にある。
碑文:
富士山の一部が噴火した際の降灰を集めて塚をつくったもので、富士講の対象ともなっている。
厚木市及川987付近(交差点付近)
碑文:
三田小学校とは、明治6年5月静学館(妻田村)支校「三田小学校」としてこの地に創立され、明治20年に「尋常三田小学校」と改称し、昭和48年7月に児童の急増にともない、現在の場所に移転された。
八幡神社階段上り口右側に設置されています。分かりずらい場所です。
碑文:
明治22年に三田、及川、林、妻田、棚沢、下川入の6箇村により愛甲郡三田村外5箇村組合村となる。その後、昭和20年に6箇村が合併し、互いに仲良く睦み合うという意味から睦合村となり、昭和30年までこの地に村役場が置かれた。また、平安時代、この一帯は、印山郷と呼ばれていた。
三田老人憩いの家入り口に設置されています。
碑文:
明治25年12月、下川入、棚沢両小学校を統合し創立、昭和41年3月、北小学校と統合の為、廃校となるまで73年余続いた文教の地。校名の由来は、詩経の一部「菁者莪也」より菁莪小学校とする。
国道129号線下依知交差点から坂を下り吾妻坂下交差点の手前にあります。ここから更に下った所に「巡礼道」の道標があります。
吾妻坂古墳は、四世紀後半から五世紀初頭に造られたと推定され、墳丘の規模や発掘調査によって発見された青銅鏡、鉄剣、勾玉(まがたま)など多数の出土品から考え、政治的、経済的にもかなり有力な人物の墓であったとみられている。
何度か通った道も横断歩道に何気なく設置されていた。ここも住所表記を地図で検索された場所ではなく近隣を何度も徘徊してしまった。道路向かいの広場の先が渡船場だったのか?
中世から古道八王子道の上依知村と対岸当麻村を結ぶ相模川の渡船場があった。
江戸時代に盛んとなった大山参りには、埼玉・八王子方面からの大山道として大いに利用された。
明治期には上依知に委託運営されていたが、昭和三年の増水で渡船に被害が出て、昭和橋が完成した昭和六年、その役目を終えた。