40=武田氏道

碑文:

北条・武田氏による「三増合戦」の際、逃げのびた武田勢が中津川の川音を海鳴りに、眼下のそば畑の花を白波と見間違え自害したとされる地に通ずる道と言われています。

小川流棚沢店につけ麺を食べに行った際に、No.34貝殻坂、No.35才戸の渡しと共に探した場所です。

 

39=大山道(おおやまみち)

碑文:

江戸時代、庶民の大山信仰と大山参りが盛んであったころは、関東北部、中部あるいは、甲州からの道者は依知・長坂の辺りから渡船で中津川を渡り、睦合北公民館南側の交差点、三田小学校脇を経て荻野新宿に至り、矢名街(海)道に合流する『道者街道』を盛んに往来したと言われている。

No.38「三田小学校跡」から現在の三田小学校へと上る坂道の途中に設置。

「大山道」という道標はこの他にもNo.91南毛利南地区・No.104相川地区にもあり、またNo.57荻野地区には「大山街道」があります。

 

38=三田小学校跡

碑文:

三田小学校とは、明治6年5月静学館(妻田村)支校「三田小学校」としてこの地に創立され、明治20年に「尋常三田小学校」と改称し、昭和48年7月に児童の急増にともない、現在の場所に移転された。

八幡神社階段上り口右側に設置されています。分かりずらい場所です。

37=質入れ道

碑文:

江戸時代の農村は、豊年の年はともかく、凶作の年には年貢を納める金子がなく、田畑を質入れして年貢を納めるため、荻野新宿の質屋へこの道を通ったと伝えられている。

この道標を探し当てる難易度は非常に高い所でまるで人の家の庭に入っていくような錯覚を起こす場所でした。

36=睦合村役場跡

碑文:

明治22年に三田、及川、林、妻田、棚沢、下川入の6箇村により愛甲郡三田村外5箇村組合村となる。その後、昭和20年に6箇村が合併し、互いに仲良く睦み合うという意味から睦合村となり、昭和30年までこの地に村役場が置かれた。また、平安時代、この一帯は、印山郷と呼ばれていた。

三田老人憩いの家入り口に設置されています。

35=才戸の渡し

碑文:

北は武蔵国八王子から、南は大住郡矢名村(現秦野市)をつなぐ矢名街道で、この道には、上依知とここの2ヶ所に渡しがあり、江戸時代には、武蔵国からの相州大山参詣道として、たいへんなにぎわいをみせた。

26=寺坂

碑文:

坂下には善明山源養寺があることから、当地区では寺坂、または、下(しも)の坂と言う。昭和38年の改修でコンクリート路面になったが道幅が狭く、平成3年に道幅を拡張し、全面改修された。

25=諏訪の森

碑文:

甲州の武田信玄が小田原の北条氏攻略の帰路の際に三増合戦が展開され、この時の記録「甲陽軍鑑」によると、この地が諏訪の森である。現在の下川入諏訪神社で、通称「六本松」と呼ばれている。

 

24=中の坂

碑文:

下川入郷の住民は、昔、中津川左岸地域に居住していたが、中津川の氾濫により逐次上段台地に多くが移住した。上段への坂は3本あり、この坂は以前には、坂の下に蘆が繁茂していたところから葭(よし)坂と呼ばれていたが、現在では3つの坂の中央にあることから、中の坂よ呼ばれている。